「小児科キャリアをもっと知りたい!」という熱い思いを胸に、全国の小児科医の先生方にインタビューさせていただきます!様々な現場で活躍される先生方の声を通して、小児科を志す私たちのこれからを考えるヒントにできればと思います。
今回インタビューさせていただくのは、埼玉医科大学総合医療センター・井上信明先生です。
公衆衛生を学び、海外での研修システムづくりに取り組む一方、日本における小児救急の普及・発展にも尽力されてきました。
先生が掲げる「根拠のある安全と安心を子どもたちと家族に届ける」という信念に込められた思いや、その原点について伺いました!
これまでのご経歴について
Q. 小児科を目指したきっかけは何ですか?
まず、最初に医学部を目指したのは、小学校四年生の夏休みにシュヴァイツァーの本を読んだことがきっかけでした。シュヴァイツァーはドイツの音楽家・神学者です。同時に、30歳の時にアフリカで医療を受けることができずに亡くなった人々の話を聞いて、それまでの地位をゼロにして医師になった方でもあります。ガボンというアフリカの国の方々のために貢献され、その後ノーベル平和賞を受賞することになるのですが、その話を読んで「自分もこんな人生を送りたい」と思い、医師を目指しました。
入学後も、医療者として国際協力の仕事をしたいという思いは変わらなかったため、いろいろな人に話を聞いて回りました。その中で「リソースが限られた世界では様々な患者さんを診られる医師でないとだめだ」と教えていただいたことで、卒業後はまずジェネラリストになることを目指し、研鑽を積むようになります。
当時はストレート研修といって、卒業後すぐに診療科を決めて入局しなければならず、卒業生の9割がそのまま大学に所属していたのですが、私はあえてそこから外れ、天理よろづ相談所病院の総合診療を育成するプログラムに入りました。
その後、徳洲会で救急や他のスーパーローテートを行い、4年間の臨床研修をしました。その中で、自分の強みを作っていきたいと考えた時に、“子どもが好き”という思いから小児医療を自分の強みにしたいと考えるようになりました。特に、どのようなお子さんでも対応できる小児科医になりたいと思っていたところ、小児救急という分野があることを知りました。2000年頃に「ER」というドラマがあったのですが、それに小児ERが出てきて興味が湧いたんです。ただ、それを学べるところは当時の日本にはなく、研修をするにはアメリカに行くしかなさそうだったので、アメリカ行きを決意しました。
USMLEの勉強は学生のころにたまたまStep 1まではやっていたので、研修医2~3年目にStep 2の勉強をし、その後CSAという模擬診療の試験も受けて無事に合格をいただきました。
Q. キャリアについて具体的なビジョンが見えたのはいつ頃ですか?
だいぶ後の話ですね。
私の中ではずっと、“国際協力=現地に行って診療をすること”というイメージがあったので、その前にちゃんとした臨床スキルを身につけるためにアメリカでトレーニングをしたいと思いました。
ただ、向こうで臨床をしている間に、公衆衛生の視点を持つことの重要性に気づき、パブリックヘルスの大学院で勉強したんです。そこで気づいたのが、自分がその国に行って診療するというのは、結局自分がいないとできない仕事であって、持続可能性が担保できないものであるということでした。自分が出向いて臨床をするのもすごく大事なことかもしれないけれど、少し広い視野でシステムを作ったり、そこで診療をする人を育てたりという方がより効果的なのではと思いました。その広い視野に気づけたのが大学院での大きな学びでした。その後、アメリカで6年半、オーストラリアで1年の計7年半、海外で小児科や小児救急のトレーニングをしました。
そこからすぐに国際協力の道に行こうかなと思ったのですが、うまくポジションが見つかりませんでした。そうしているうちに、清水直樹先生(現・聖マリアンナ医科大学小児科主任教授)から、日本の小児救急医療も未開の分野であり、人を育てる施設もまだ十分にないので、まずは日本でやってみたらどうだと助言をいただき、2010年に東京都立小児総合医療センターが開院するタイミングで帰国しました。そこでは小児救急部門の立ち上げをさせていただきましたが、大変なことも多かったですね。
最初は3人から始めて、途中で1人抜けたりもしたので、2人で当直を回す時もあり、多い月で1ヶ月に18回も病院に泊まったこともありました。きつさは感じながらも、それ以上にみんなエネルギーがあったと思います。それまで日本国内で十分に知られていなかった北米型小児ER*1を導入するということで、日本の救急医療や小児医療に新しい価値を生み出すみたいなビジョンがあったんです。「私たちが始めた診療スタイルは、地域の住民のためだけでなく、これから小児救急を目指す全国の若手を育てるものである」という熱い思いがあり、多くの方々にご協力いただきました。いろいろと落ち着いたのは2015年頃になってからです。私が信念としている「根拠のある安全と安心を子どもと家族に届ける」ということを、スタッフたちが私がいなくとも言うようになったのがその時期です。根拠というのはいわゆるエビデンスに限らず、時間や情報といったリソースが限られた環境でベストアウトカムを目指すために、事実として得られる確実な情報も含まれていますが、それを自分がいなくても実践できると確信したのが始めてから5年後のことでした。
*1 軽症から重症まであらゆる患者を受け入れ、救急医による初期治療を行った後に各専門科に相談するシステム
一方でちょうど同じ時期に、ネパールで地震がありました。当時JICAの緊急援助隊に所属していた私は、子どもたちがたくさん被災しており、助けを必要としているというユニセフの報道を見て、自分も行かなければいけないと強く思いました。周りにお願いをして仕事も2週間休ませてもらい、ネパールに向かったのですが、そこで自分が元々やりたいと考えていた国際協力のことを思い出しました。日本で始めた都立小児総合医療センターでの仕事が落ち着いてきたこともあり、そろそろ次のステージに移ってもいいのかなと感じたんです。
結局、翌年の2016年、国立国際医療研究センター(現・国立健康危機管理研究機構の国際医療協力局*2)に転職しました。これが卒後20年目の話です。
国際協力と聞いて、もともと私が考えていたような現地に行って診療するという活動は、NGO(Non-Governmental Organization)*3 が多くやっています。対して、システムを作る、高い視点で国全体に関わる、といった仕事はどちらかというとGO(Governmental Organization)やさらに上の国連といったレイヤーに行かないと中々できないんです。ネパールでの活動の際、緊急援助だけでなく、国の仕組みづくりにも関わりたいと思っていた私は、そのような仕事ができる環境を探していたところ、偶然国際医療協力局 のことを知りました。大学の先輩もいらっしゃったので話を聞きに行ったら「ちょうど昨日募集が始まったから今から応募しなさい」と言われ、当時の病院長に反対されながらも履歴書や推薦書を準備しました。
*2 低・中所得国の医療や保健衛生の向上のためにプロジェクト支援を行う専門家組織。人材育成や研究および健康危機に対する緊急援助活動も含まれる。
*3 外務省直轄のJICAや国連と異なり、政府から独立して活動する組織。一方で、政府組織との連携は活発で、公的な資金支援の仕組みが存在する。
転職してからはずっと小児のことをやっていたわけではなく、人材育成と社会システム作りが主な仕事でした。8年間の在職期間のうち4年間はモンゴルに滞在して、モンゴルの卒後臨床研修制度を整備する事業に従事しました。モンゴルはもともと社会主義国家だったのが、1990年に民主化した国です。それまでは医師の配置や専門性というのを国が計画して決めていたのが全てなくなったので、医師たちが自由に行き先を選べるようになった分、地方に医師がいなくなってしまったんです。それでもやっぱり医療を提供する人は必要ということで、国は医学部を卒業した学生を強制的に地方に配置するようになりました。2年間地方で勤務すれば医師免許をあげる制度を始めたのですが、もちろん学生は臨床研修をしないまま行くことになるので十分な医療ができない、逆に住民は役に立たない医師が来たので信用できずに大きな病院に行く、といった事態になったみたいです。これを改善するためのプロジェクトが始まったのが2015年のことで、私はこのプロジェクトのチーフアドバイザーとして2017年に現地に派遣されました。
皆さんの臨床研修は、法律で定められ、予算が確保されているものです。モンゴルにおいても、きちんとした環境で研修できるようにしなければならないので、そういった制度設計をモンゴルの保健省の方々と一緒にやりました。また、日本の臨床研修指導医講習会に相当する、指導医を育成するための研修も、日本の先生方の力をお借りして作りました。最終的には、この研修は予算管理も含め、全てモンゴルの方々が自分たちでできるところまで持っていきました。このような準備を経て、2018年にはモンゴルで初めてとなる臨床研修が開始されています。その後、この研修は徐々に広がっていき、去年になってようやく全てのエリアで研修ができるよう国が予算をつけてくれました。ちなみに、昔のモンゴルの医師の研修は、研修を受ける医師が月謝を払って受けていたんですよ。なので、お金がある人、あるいは出身地から「この科の医師が足りないから勉強してほしい」と頼まれ、奨学金をもらって研修している人ばかりでした。現在はきちんと給料を出して研修ができるような形になっています。

モンゴルでの活動と並行して、ブータンでの医学教育に関するプロジェクトにも関わらせていただきました。つい最近まで、ブータンには医学部がなかったので、医師になることを目指す学生は海外の医学部で勉強して、6年生の1年間だけインターンを国内でするという制度をとっていました。この事業では、主に蘇生教育を国中の医療従事者に普及させるシステムづくりに注力し、2025年の12月までやっていました。この期間は1, 2ヶ月おきにブータンに行く感じで、モンゴルに関しても2024年12月までプロジェクトリーダーをやっていたので、1年の半分くらいはブータンとモンゴルを行き来していました。
国際協力の仕事だけをずっとしていくというのも選択肢としてはあったのですが、私の中では「自分のアイデンティティとして、小児救急医療は切り離せないな」とも思っていたところ、偶然、埼玉医科大学からお声がけをいただきました。2024年7月に着任してからは、埼玉医科大学総合医療センターが長年されてきた国際協力の仕事と小児救急の仕事の2つを軸にしながら、学生や研修医の教育指導や研究も行っています。小児救急に関しては、体制づくりから必要なところもありますが、日本のどの地域においても「根拠のある安全と安心を子どもと家族に届ける」ために頑張っています。

Q.国によって医学教育のやり方も異なるんですね。研修のシステム作りについては大学院で勉強されたんですか?
そうですね。公衆衛生の大学院に行くと、そういったツールや考え方というのを教わるので参考にはなりました。
ただ、実際には0を1にするというのは結構難しくて、様々な国の制度を勉強して一つずつ引っ張っていきました。私の場合は日本だけでなく、アメリカやオーストラリア(※イギリスの研修制度を採用)での研修も経験していたので、より複数のモデルをよりリアルに提案できたのが強みだったと思います。伝えていく段階になって改めて自分のやってきた研修を振り返ってみたのですが、初めて研修制度の意味や歴史を知ることも多かったですね。
※インタビューは後編に続きます!
